T30-W.Kiribati,3D2-Fiji
**1992年8月**
<<<T3φ(西キリバス)、3D2(フィジー)>>>
T3φ(西キリバス)、3D2(フィジー)
JF3PLF/杉浦雅人
【出発まで】
私は、1989年に5W(西サモア)に出かけて以来、YAQのペディションからは遠去かっていました。
JR3OFX/児玉さんの行った8QにV6,KH2,KHO,A3・・・全て日本で留守番でした。特に
昨年のA3などは、フライトも免許もOKだったのに、個人的な理由で参加を諦めざるを得ず、指をくわえて
参加メンバーの活躍を傍観していたものです。
今回は、久々ということで、大きな期待を胸に、その実現を夢見て出発を待ちました。
計画から出発間際まで、実現に向け奔走してくれたのはJI3DLI/藤原さんです。彼は昨年の私の如く、
出発直前にフライトの都合で参加を諦めたのですが、それまでは隊長として、本当によく頑張ってくれたの
でした。この【出発まで】の項は藤原さんの記録を基に綴らせていただくものです。
1991.8.19 A35ペディション終了。メンバーは、帰路途上早くも次回ペディション候補地
選定会議(?)を開き、T30(西キリバス)を第1候補地に決定。ほとんど病気!
8.27 JI3DLIが、JA1UZI(T30DN)/松浦氏にT30について、質問の
手紙を郵送。
9. T30の他、YJ(バヌァツ)についても調査を開始。
9.30 JAIUZIから返信。免許申請先判明。現地の状況も少しわかる。
9.30 キリバス・テレコムへ免許関係についてこ問い合わせの手紙を郵送。
10.30 キリバス・テレコムから返信があり、申請書を入手。免許申請は容易な模様。
1992.1.18 第1回ミーティング開催。JH3FJG,JH3TXR,JI3DLI,JI3NTSが
参加し、日程・渡航ルート、ホテルを決定。
1.24 JI3NTSを通じ、航空券を予約。
1.27 経由地である3D2(フィジー)でも無線をしようと、昨秋ペディションをした
JI1NJC(3D2YI)/飯塚氏に、問い合わせの手紙を発送。
1.30 キリバス・ホテルに予約のファックスを入れる。次の日には返信があり、予約はOK。
2.15 第2回ミーティング。ここでは参加者(JH3FJG,JH3TXR,JF3PLF,
JI3DLI,JI3NTS,JK3DEV)の意志確認をし、T30の免許申請書を
作成した。この頃、1エリアのグループがT30からQRV。少し安くなったかな?
2.27 T30免許申請書を発送。
2.29 参加申込みを締め切る。6人の参加者確定。
3.14 2月のT30ペディション隊のJQ1QET(T30QQ)/津村氏に、最新情報を得る
ための電話を入れる。
3.23 第3回ミーティング開催。既に予約済みのホテルに、うさんくささ(?)を感じ、
国営のOtintaai Hotelに変更。運用設備の詳細も決める。
同時に3D2の免許申請書を作成。
4. 3 早くもT30の免許到着。コールは全員希望通り、T30IG(JH3FJG),
T30IL(JF3PLF),T30IM(JI3NTS),T30IN(JK3DEV),
T30KT(JI3DLI),T30TX(JH3TXR)と決定。JAの資格に関わらず、
オールバンド・オールモードの免許。9ページにわたる運用マニュアル付き。
4. 5 JF3PLFが3D2のホテルに予約の電話を入れようと国際電話を試みる。
しかし、何度やってもつながらない。東京のフィジー大使館に確認すると、フィジーでも
全国的に電話番号不足のため、1桁数字が付加されたとのこと。改めて国際電話をし、
Cathay Hotelを予約。
4.21 3D2の免許申請書を郵送。
4.27 JK3DEVが不参加表明。どうも挙動に不審な点があったと思ったらやっぱり・・・です。
5. 8 JI3NTSから航空券の予約状況が確認されたが,3D2からJAの帰りの便が未だ
Waitingの状態。
5. 1 CQ誌、モービルハムのDX欄へ、広報の原稿を発送。
5.19 第4回ミーティングを開催。持ち物と今後の各自の役割分担を確認。
6. 3 3D2も免許が到着。サフィツクスは、各々T30と同じ。今回、免許関係は大変スムーズに進行。
6 JH3FJGが、ANTの軽量化に取り組む。人数が5人だと、総重量100kg以内。
7.12 第5回ミーティング。JI3NTSが不参加表明。彼の理由は「怪しい」ものではなく、
仕事の都合だそうです。またまた許容重量が20kg減。持ち物の精選作業を行う。
7.25 第5回ミーティング。荷物の最終チェックと計量。昼に焼き肉パーティーで、ミニ壮行会。
7.30 緊急ミーティング。帰国便のNGが確定的。JI3DLIは参力を断念。他の3人は、日程をずらし、
旅費を上乗せしてでも決行を決意。
8. 2 荷物の再計量。全部で60kgはきつい!6m、衛星、WARCのビーム・・・・と、今回相当の設備を
断念しました。しかし、HFのリグ2台とRTTYは、何としても死守。
このような1年がかりの準備を経て、いよいよ本番がやってきます。最初6人だった参加予定者も、出発時点では
わずかに3人。免許や宿泊関係がいつになくスムーズに進んでいた今回のペディションでしたが、やはり帳尻は
合うものです。
8月6日午前5時、JH3FJGの車が発進。JF3PLF,JH3TXRを拾って名神京都東IC.へ
と向かいます。山科で待ち受けてくれた参加断念組のJI3NTS,JK3DEVが、おにぎりとお茶を餓別に
くれ、見送ってくれました。実は直前にも、ハプニングがありました。JH3FJGの勤務するJRが出発前日に
脱線事故! FJGから私の元に何回か電話がありました。「会社から帰えれず、最悪参加できないかも・・・・・」と。
結局彼は参加できたのですが、とぱっちりを受けたのが同業のJI3DLI。彼は、見送りに来てくれる予定だったのですが、
臨時の勤務でJA出発直前には会うことができすじまいでした。
さて、京都を後にし、T30/3D2のペディションの始まりです。
<<8月6日(木)>>
【成田へ】
06:00 私達は、東名高速道路を東京へと向かいます。大変快調です。 JH3FJGは高速を走り慣れている様子で、
覆面パトやオービスの脅威も何のその、終始140km/hそこそこのスピードでぶっ飛ばすのです。前日CMでのトラブルに
睡眠もあまり取っていないとのことなのですが、休憩も荷物の整理に立ち寄った浜名湖のSAくらいで、早くも正午前には,
首都高速の渋滞情報が表示されている辺りまで到達していました。このツケがどこかで出なければいいのですが・・・・・・。
ちなみに、区分けされた荷物の内訳を記しておくことにしましょう。
FJG=麻袋(壊れない機材と衣類が入っている)+手荷物(主にRTTY用品)
TXR=トランク(TNCや電源等、主として壊れ物)+手荷物(TS−440等)
PLF=アンテナ+手荷物(FT−757と電源)
このように、一応各自預けるものと持ち込むもの1個ずつになりました。
12:00 首都高は、既に東名川埼から渋滞している模様です。まあ、
飛行機の離陸には余裕を持って出てきているので、この位は折り込み済みです。その渋滞も、東京ディズニーランドの横を通り
過ぎ、東関東自動車道へ出る頃にはなくなっていました。東関道にあるSAで給油し、カレーを食べました。そこを出ると成田は
もうそこです。
【いよいよテイク・オフ】
14:00 成田に到着です。万一フライがキャンセルされていたりしては大変ですから、車を預ける前にフライトの。OKを
確認します。私がOKを確認後、車から荷物を下ろし、DEVさんお馴染みの駐車場に車を預けました。後はひたすら待つばかり
です。何しろ今は14時。フライトは20時なのですから。TXRは銀行でキャッシュを下ろす、私は旅行保険の手続きをする等、
少し未決事項の処理をしましたが、それでも時間が余っていることは言うまでもありません。焦ってどうにかなるものでもありま
せんので、ここは開き直って人間ワッチングです。海外遠征に出かると思われる少年野球チームのようなの、日本製のテレビや
オーディオをいっぱいカートに載せた各国の観光客、幸せいっぱいの新婚さんetc,..。やはり、空港には様々なドラマが
溢れています。中森明菜の「北ウイング」を思い出したりして・・・・・・。
17:30 チェックインが始まりました。私達の乗る便のチェックイン・カウンターは、全然混雑していませんでした。
行く所が変なのか、シーズンちょっと前だったのか。ともかく、快適なチェックインでした。カウンターのお姉さんは、アンテナの
箱を見て、「スキーですか」と。「いえ、アンテナです」と言う私達に、ちょっと変な顔。荷物を全て計量器に載せると57kg。
(総重量は60Kg以内なんです。)完璧な事前準備?しかし,私は知っている。アンテナの箱が、少し計量器横の段差に引っか
かっていたのです。ほくそ笑んだ私達ですが、後から聞いた話では、たいてい10kgのオーバーまでは黙認されることが多いとか。
チェックイン後、空港使用料の2000円だかのチケットを買い、出国審査。別段何ごともなく通過です。
18:00 次の関門であるセキュリティー・チェックを通ってしまうと、もう後は店も何もなくなるので、ちょっと足を止め
ました。店の並ぶセキュリティ。チェック前のロビーで時が過ぎるのを待ちます。
19:00 さあ、いよいよゲートに向かいます。セキュリティー・チェックの係官も、最近はアマチュア無線の機械に慣れたので
しょうか。誰のカバンも開けられていないばかりか、逆に、「取り扱い注意」などと、係官同士で言葉を交わしていました。
19:20 TXRと私は、出発前に京都へ電話。FJGは?さあ?そうこうしている間に搭乗手続きが始まります。
席はD,E,Fとまん中の続き席です。すいていたので、私の隣りの「G」は空席かと思っていたら、少々下品なYLが。
お上品なお姉さんならお友達にもなるのですが、結局道中何一つ言葉を交わすことなく終わりました。
搭乗の時、TXRさんは「アレッ!」と思ったそうで、機内通訳のお姉さんは、実は昨年のペディションでグアムに臨時着陸した
時にも棄っていた人だったそうです。ナンディでの降機時にTXRがそう言うと、お姉さんも『そんなこともあった』と言ってました。
【FJG意識不明!ペディション断念か?!】
20:00 口々に「大丈夫かいな」と言っていたエア・パシフィック303便は、珍しく定刻の午後8時にターミナルを離れ
ました。夜に出て朝に着くナイト・フライトですから、乗ってしまえばあとは夕食(夜食?)を食べて寝るだけです。いや、その
はずでした。しかし、早くもペディション(というよりもこの旅そのもの)が続行不能かと思われるようなハプニングに見舞われた
私達でした。・・・というのは、夜食にでるはずだったビーフが直前の席でなくなり、チキンになってしまたたというような些細な
出来事ではなく(事実そういう出来事もあったのですが)、深夜FJGが意識不明の重体に陥ってしまったのです。やはり、前日の
睡眠不足がたたっていたのでしょうか、貧血のような状態になってトイレに立ったところ行った所にトイレはなく、席に戻る途中に
意識がもうろうとして倒れてしまったらしいのです。例の機内通訳のお姉さんが「お客撥の中にお医者様か看護婦さんはいらっしゃ
いませんか」と呼びかけてくれたり看護婦さんが名乗り出てくれた後、非常時に落下してくる酸素マスクで酸素を吸わせてもらったり
で、応急手当をしてもらったのでした。頬をバンバン叩かれても応答なく、瞼は力なく半開きになっていたもので、私達はFJGの
生命の危機さえ感じました。もちろん、”死人”が出てはペディどころではありません。 しばらく機内の床に寝かされていた(彼の
巨体は、空席のイスを2つ使ったくらいでは横にできないのです)FJGが意識を取り戻し、少し元気になって席に戻ってきてくれた
時は、本当にホッとしたものです。
<<8月7日(金)>>
【ナンディ到着】
06:00 「朝からこんなたくさん食えるか!」といっていたのはFJGとTXR。私は機内食をペロリとたいらげて、海外生活
初日の腹ごしらえです。機内で、入国審査の紙を記入し、着陸の瞬間を待ちます。今時の飛行機は大したもので、巡航装置と
コンピューターがしっかりリンクされているのでしょう、刻一刻と飛行機の現在位置や速度、目的地までの距離と時間などをRGB
ジェネレーターで表示しています。離陸直後は日本近海が大写しにされていたスクリーン上には、今や赤道を越えフィジー本島の
ナンディやスバがすぐそこにと迫っていました。
07:15 待ちに待ったナンディ国際空港到着です。飛行機を降り、この旅で合計3回並ぶことになる入国審査のカウンターへと
進みます。なぜ3回かって?それはまだ内緒です。
私達はエコノミー・クラスですから、長蛇の列に並ばなければなりません。それを横目で見ながら、ファーストクラスの人達や
フライト・クルーは、ほとのんどフリーパスでカウン夕ーをスムーズに・・・。やっぱり飛行機に乗るならファーストクラスですね。
荷物をターン・テーブルからピックアップし、税関へ。税関と言っても、日本のヤツみたいにカウンターはありません。2人の
係官が立っているだけ。やはりアンテナは、尋ねられました。FJGが、用意してあった回答(キリバスで使うだけ)をして、OK。
まともに、通関許可証を見せて通ろうとすると、税金を課せられてしまう、という情報を受けての対応でした。
無事空港を出ると、その辺のオフィスでできそうなことを済ませてしまおこうということで、銀行やら飛行機会社やらを回ります。
銀行ではフィジー・ドルへの両替。日本からの便が到着する時間には、出店のようなのが銀行前に出て、1万円単位の両替を受け
付けています。便利なもんだと思ったのはつかの間。結局はそこで発行してくれる券を持って銀行の中へ入って行かなければならない
のでした。次にニュージーランド・エアのオフィスへ行って、帰りの便の航空券の購入。親切な女性係員の応対もFBなことながら、
それに加えて日本で買うより2割は安いことぱ特筆すべきでしょう。ここで、T30までのエアーマーシャルのりコンファームも
OKだということだったのですが、一応向かいにあった同社のオフィスにも行っておきました。
この後,タクシーでラウトカにあるキャセイ・ホテルへと向かいます。運転手はやたら私達をどこかへ連れて行こうと、いろんな所に
誘います。サトウキビ・プランテーションだの、原住民の村だの・・・・・・。そりゃ確かに見たいけど、それよりも私達は
休みたかったのです。観光したければ、帰りの滞在の時にレンタカ−を使っていくらでもできるし。ということで、タクシーの
運ちゃんには、ホテルまで送ってもらうだけにしました。 しかしそれでも食いついてくる商魂というか生活力というか・・・!
「翌日、空港まで送ってやるから予約を」と言って予約をさせられたのです。FJGさんは、「怪しいんちやうか」と言ってい
ましたが、まあ予約料はF$10だし、いうことで、OKしました。さあ、やっとホテルに到着です。本当に、私達は旅の疲れが
あったので、しばらく休み、それから行動することにしました。
【アンテナが張れる!】
昼過ぎより、いよいよ行動開始です。ぐるりとホテルの周りを偵察します。アンテナを張るには、北側の広い庭(海岸側)があり、
不自由ありません。しかし困ったことに、このホテルはヘタにエアコンなんかが完備してあるため、どこにも同軸を出せるような
隙間がないのです。サモアで見たようなガラス回転式の窓にも、律儀に網がついています。昨年のトンガ・ペディでこのホテルを
利用したTXRも、名案はなさそうでした。そう言えば、JAでDEVやNTSもここからのQRVには悲観的だったっけ。ダメなら
帰途のレンタカーによる移動運用にかけるしかない、とも思いましたが、私は何とかQRVしたい執念で、いい所を発見しました。
私達の部屋がある2階の片隅に寝具の片付けてある倉庫があるのです。鍵もついておらず、覗いてみると、ここが唯一窓に綱の
ない部屋だったのです。ここがダメならQRVできなので、あとは「当たって砕けろ」です。フロントでマネージャーとの交渉に移り
ました。一応予約時に無線をするということは言ってあったので、あまりいい顔はされなかったものの、無線の運用は許可する
つもりのようです。「どんなアンテナを張るつもりなのか、見せてみろ」とのことなので、実物(ダイポール)を見せました。次に
例の倉庫の窓を使用する交渉です。実際に同伴でその場所の確認をし、「ここから出すのか?」と腕組み・・・・・・。その末に、
親指を出してOKサインをくれました。ここで、本当に嬉しそうな顔で、”Really?We’re very happy to be
able to enjoy amateur radio at your hotel.”といったようなことを
述べたことを今でも覚えています。感触としては、ダイポールがいいとこで、トライバンダーまではちょっと難しそうな雰囲気でした。
「まあ試みるなら帰りに・・・・」ということで、私達の意見は一致しました。
さて、許可が出てからの私達の行動は、驚異的に迅速です。TXRが機器のセツティングをしている間にFJGが同軸を廊下に
テープで固定し、私は同軸を例の窓から放り投げ、椰子の木に石を投げてアンテナを張り・・・・・・と、連携プレーは万全!ものの
30分もすれば、QRVの用意が整いました。
【ペディション第1声(CWでしたが)】
オペレートは、アンテナの関係でチューナー内蔵のTS−440で始まりました。誰が第1声なのか覚えていませんが、私のログ
では0458UTC、 10MHz CWで、ZL1AXMが1st QSOとなっています。その後、夕食も食いはぐれるほどの
興奮で3人ともパイルを楽しみ、明日の朝は早いというのに、眠ったのは日が変わってからでした。
ちなみに、私はこの日、いろんなパンドを渡り歩いた末、10MHzと7MHzのCWに居座り、”listening up!”の
快感に浸りながら、何と300局余りQSOしたのでした。
<<8月8日(土)>>
【いざ、キリバスへ!】
04:45
3人とも起床です。しかし、私のログを見ると最後の局は1539UTC。(ここは便利な所、ローカルタイムはUTC
の12時間プラスですから、すぐに換算できます。)まぁ、とにかく私は夜通し無線をしていた訳で、睡眠時間は僅か1時間だったの
です!HI.....
さて、張ったばかりのアンテナを撤収しなければならないのは無念なのですが、本当の目的地に旅立つためなのですから仕方
ありません。アンテナを下ろしに庭へ出てみると、昨日心配したタクシーも既にホテルの車寄せに来ていて、運転手は眠っています。
荷造をし、チェックアウトして、Cathey
Hotelを後にします。この時、マネージャーはいなかったので、帰途のことを言っておくのは
ヤメにしました。
06:00 空港に着きカウンターでボーディング・パスをもらいます。何と、”free
seating”、つまり自由席。ここの、ロビーで
1声をかけてくれたオジサンがいます。もらった名刺にはキリバス・テレコムの文字が。私達がペディションTシャツを着ていたから
分かったそうで、彼はどこかまで出張なのだそうでした。小さな国と言えども、無線はやはり共通の趣味なのですね。
さて昨日はジャンボ機で到着したのに、今度乗るのは小さなプロペラ機。話によると週に1便の貴重なフライト。人間優先のため、
重量超過の荷物は積み残しもあるとか。確かに夕ーミナルへ戻されて行く荷物もあったようで、私達の荷物がちゃんとキリバスまで
届くのか、大いに不安がありました。乗り込んだ飛行機自体、エア・ニュージーランドの払い下げらしく、NZのロゴがあちこちに。
FJGが機内誌で確認したところでは、このエア・マーシャルという会社、今回乗ったボーイング748を1機だけしか持っておらず、
その1機を酷使して自転車操業しているようなのです。何とも物騒な話です。
08:00 定刻通りの出発です。フライト予定時間は約7時間。確か成田−ナンディもそれくらいでしたよね。半分くらいの距離を、
プロペラ機は同じ位の時間かかって飛ぶのです。しかも給油にT2(Tuvalu)に立ち寄って。私にとってはまあありがたく、
睡眠時間の回復にちょうどよい時間でした。プロペラ機ですから騒音もキツく、振動もありますが、私にはそんなもの、何でもありま
せん。HI...
13:00頃 Tuvalu到着。ここに着く少し前に、スチュワーデスが何やら言いに来ました。何のことやら不明でしたが、
どうやら私達のすぐ前に乗っている恰幅のよいヒト達は、マーシャル諸島かどこかへ行く国賓級のお客(南の国の大王?)らしく、
老のヒトを先に下ろすから待ってくれ、ということだったらしいです。降り立ってみると、トランジットのチケットはまるで銭湯の
げた箱のカギのような木簡。空港は舗装してないし柵もない。空港を横切ってバイクや自動車が走るのです。週1便しかない飛行機が
来るというので、島の人達総出で野次馬の人だかりです。空港とは言うものの、イミグレーションのカウンターは青空市場の野菜を
置く台のようなもの。トイレは表示もなく、水も流れません。こっちの方が、ペディする価値があるだろうに、なんて思いました。
せっかく立ち寄るのに電波を出せないなんて、私達はもったいない思いでいっぱいでした。
14:00頃 少し予定より早く、キリバスのタラワに到着しました。ツバルよはりはややまともですが、ここも空港とは言え、
コーヒーショップと売店があるだけで、航空会社のオフィスも銀行もないという殺伐とした所です。イミグレーションは、ベンチに
腰掛けた役人とのひと言ふた言で、全く問題なし。ただ、荷物がなかなか出て来ず、冷や汗が出ました。アンテナの長い段ボールは
ここでも不審がられたようで、出て来たのは一番最後でした。
空港の出口にはホテルのマイクロバスが出迎えに来ています。さすが国営!タワラ島のまん中を唯一縦断する一本道を2−30分
揺られて私達はOtintaaiHotel(オシンタイと読む。この国では”t”は”s”の発音になるらしい。”Kiribati”も
「キリバス」である。)Hotelに到着しました。
ホテルのフロントはお姉さんばかり。TXRが喜びます?!22号室、23号室の鍵をもらい、同時にここでも「無線をやりたい」と
告げました。ここはFijiのCathey Hotelと違って全く躊躇なく、快くOKの返事がもらえ、ペディションの成功が
予感できました。
部屋は日本基準で判断しても結構高級でエアコン・トイレ・バス完備、裏庭つき。家庭は北向きで無線に好都合な上、
マストをくくりつけてくれと言わんばかりに格好のフェンスも。さあさあ、アンテナを上げましょう!!
【T30からオペレート開始!】
QRVの準備は着々と進みました。3D2では使えなかった3エレも、いよいよ出番です。JAで、FJGが寸暇を惜しんで
すぐに使えるような梱包をしておいてくれたので、荷ほどきゃ設営は、いとも簡単に終わりました。
てこずったのは、むしろダイポールの方です。海岸線に平行に張らなければならない・・・・・ということは、2基張ろうとすると
持参した同軸ケーブルの長さから言って、3つのアンテナが近接してしまいます。また、準備の時にぱ、このダイポールは途中に
いくつかワンタッチで接続−切断が可能な端子をつけてマルチバンドに使用する算段だったのですが、実際のペディションで擦時に
QRVするバンドを切り替えたい時には事のほか面倒なのです。今回、とりあえずこの件はTS−440内臓のオートチューナーを
使うことで妥協することにしましたが、できればトラップ・コイルを入れるとか、シングル・バンドのアンテナを複数用意するとか
して対応することが望ましいと思います。
シャックには、良好な220Vの電源が来ています。当初、2つのリグは2つの部屋に分けて置こうかと思ったのですが、
寝室専用の部屋も必要だろうと結局は22号室を無線室とすることにしました。たったひとつ難があるとすれば、照明が良く言えば
ムーディで暗すぎたことくらいでしょうか・・・・。とにかく快適なシャックです。
18:22 アンテナもシャックも整い、いよいよT30ペディションの幕開けです。私は21.295MHzで第1声を出し
ました。待ち受けていてくれた我らが類集長・JI3DLIが、T30からの1st QSOとなりました。無事に到着し、用意が
整った旨を伝える数分間の交信の後、JAのパイルアップが始まります。DLIの連絡を受けてか、パケットクラスターの情報か、
JF3LGC,JA3KWZ,JA3COA,JH3QNH,JG3CZJといった京都の方々が次々とコールを下さるので、
私達は大変心強く感じました。この夜、IGはWARCを含むいろんなバンドでサービスした後、21MHzで局数を伸ばし(約90局)、
TXは7MHzのCWを長時間(約5時間、約170局)楽しみ、私は軽量化の至上命令からの復活折衝で持参できた念願のRTTYを
始めました(この目は約90局)。RTTYは、14MHzと21MHzでQRVしましたが、この日はJA以外に大したオープンはなく、
VK,KH9,F04といった太平洋のカントリーが数カ所とVEが1局できただけでした。7MHzに出ていたTXだけは、少々Wの
パイルの快題を味わうことができたようです。ペディション第1日最終の交信は、ログによるとIGが0時(変則的に2時半にもQSOが
あります。きっと眠れなくてまた火を入れてしまったのでしょう)、ILが2時前、TXが3時半でした。
パイルの興奮で、夕食は食べられず、何せ、ホテルの食堂が閉まってしまったら、もう何も近所に食べる所なんてないんですから。
「ちょっと『天−』でも食いに行こか」という訳には行きません。ラウンジで売っていたビールだけは部屋に届けてもらい、あとは
ピーナツをかじるだけのひもじい夜でした。
それにしても別表のlst QSOリストを見て下さい。初日だけで半分以上のバンド/モードに出ています。それもほとんどが
IGさんのQSO。精力的なサービスでしょう!それと、我が京都クラブのJN3RBE・中山さんが、ついに3.5MHzでT30を
GETされました。彼は「3.5MHzだけ出てくれたらええわ」と言っていましたから、彼に対する私達の任務は、初日にして
完了してしまったのでした・・・・・。HI.
<<8月9日(日)>>
【竃波の止まらなかった1日】
第2日、昨夜遅かったにも関わらず、3人とも元気です。IGは7時前には起き出して、ワッチをしていたようで、彼のログには
数局のコールサインが。この日はホテルの食堂で朝食を取りました。久しぶりの文化的な朝食です。ビスケツト、コーンフレーク、
マンゴー、そして有料のスクランブルド・エッグ(このホテルは、基本的に普通の朝食は無料でついています)。
その後、シャックで少し無線。私は10年来JANETのメンバーでなので、海外に行く度に、そこからJANETにチェックイン
しようと思っているのですが、末だかつて実現していません。10時前からワッチしコントローラーのKB8VA/スナイダー純子さんの
電波を見つけました。そして10時18分に、念願のチェックインができたのでした。彼女の電波は強かったものの、私の方が弱かった
ようなので、私は早々にチェックアウトし、パイルを裁きにかかりました。
10時半頃から私達はホテルの周りを探検しに出かけます。しかし、この日は日曜日。だからかどうかは分かりませんが、沿道の店は
軒並み閉店しています。途中ツーリストビューロ−や郵便局、テレコムの支店やピデオ屋、派出所などを発見しながらやっと
開いていた生協のお店へ。TXとILはTシャツを土産に買いました。ちゃんと”made jn
KIRIBATI”の文字を確かめて。
ここの衣類はマアマア美しく、縫製もそんなに悪くありません。HI.他には、ホテルで食べるものにあぶれては困りますので、
食料を買いました。ピスケット、ポテト・チップス、,コーラ、ジュース、それにカップ麺です。この時はよく見ていなかったのですが、
中国製らしいカツフ麺は、既に賞味期限をとっくに過ぎているという代物でした。
今日街をうろつくのはこれくらいにして、ホテルに帰ります。その途中、私達が小さい頃にやったように、木の上に自分達だけの
家(?)をこしらえてサルのようにキイキイ言っている子供達に会いました。子供達はどこでも無邪気で、私達の向けるカメラに、
おどけてポーズをとってくれるのでした。
この後、ホテルに帰った私達は、夜更けまで無線、無線・・・・・です。3局全体で見ると、この日の起床以降、電波が止まったのは、
1時間半程度に過ぎません。IGは少々停滞ぎみです。それでも21MHzを中心に90局程度。この日ほとんどリグの前から離れず
昼間に4時間、夜に8時間連続のオペレート。7MHzのCWで7005付近に居座り5時間で370局のQSOを含め、この日で既に
ログが45枚。局致は900局に追つました。TXも負けじと夕方以降、1時間100局以上のペースで21MHzSSBを裁きます。
彼もログの枚数33枚。600局を超えたようです。
後からログを見ていると、本当にJAというのは「湧いて来る」という表現がピッタリで、本当に限りがありません。TXのやって
いた21MHzも、私の7MHzも、私達が”crazy”というよりはそういったワケでリグの前を離れられなかったのです(??)。
最後に、別表として、T30及び3D2でのFIRST QSOのリストを付けておきます。JAの局がほとんどですね。また、JH3QNH,
JI3DLIは、京都クラブ員しての意地で、それぞれのバンドの1stをモノにされたような気がします。ご苦労様でした。
<<各バンド/モード 1stQSO>>
==3D2(往路分)==
7C JA3BCT(IL)7/1026
10C ZL2AXM(IL)7/0458
14S N7BZI/5(IL)7/0549
14C W0MLY (IL)7/0511
21C JN2QCV(TX)7/0750
==T30==
3.5SJH3QNH (TX)8/1001Z
7S JJ4XCH(IG)8/0902Z
7C JA1BMD(IG)8/0819Z
IOC JA1JEJ (IG)8/0932Z
IOR JH3KEA (IL)11/1120Z
14S JA1BNW (TX)8/0725Z
14C JM1XIT/1(IG)8/1946Z
14R JA3BXC (IL)3/0849Z
13S JRIMAF (IG)8/0656Z
18C JAIWPX (IG)8/0749Z
18R JGIWNO (IL)12/0103Z
21S JI3DLI (IL)8/0622Z
21C FK8FS (IG)8/0805Z
21R JR2CFD (IL)8/1318Z
24S JA1IFP (IL)9/0303Z
24C WU6T (IL)9/0235Z
24R JH1HRJ (IL)12/0147Z
28S JH1GHR/3(IG)10/04Q7Z
28C JA8DTR/1(TX)9/0154Z
28R JF2MBF (IL)9/0505Z
28F JH3Gは/3(IG)10/0410Z
<<8月10日(月)>>
【町へでかける日】
せっかく飛行機で7時間+7時間かかる遠い国まで来たのですから、国内の観光もしておかなければ値打ちがありません。
この日はQRVを心待ちにしているであろう全世界のDXerにはご勘弁いただいて、街にでかけることにしました。
<コーズウェイ>
朝食の後,探検(?)に出発です。キリバスの中心をなすタラワ環礁は小さな島の集まりで、その南半分の島は、日本の技術協力で
できた建設されたコーズウェイと呼ばれる橋でつながれています。このコーズウェイを含む1本のメインロードが、キリバス唯一の
道路らしい道路であり、空港のあるホンリキから西端のベシオまで、総延長はおよそ30kmになります。日本が建設に乗り出す前に
オーストラリアが試みたそうですが、コストパフォーマンスが悪いのか撤退。日本の手により、やっと完成したそうです。戦争中は
日本海軍によって踏みにじられた激戦地ですが、その後の援助は高く評価されているようで、最も難工事だった最長の橋
(バイリキ−ベシオ間で、30セントの通行料をとる。)には「ダイニッポンコーズウェイ」の名がつけられています。
<バス>
島内の各地へは、バスで出かけられます。バスと言っても、個人持ちの日本製の中古ワゴンかマイクロバスで、ワゴンの場合など
フロントガラスに「bus」と書いた紙をはさんであるのでかろうじてバスと分かるりますが、これがなければQNHやOINの
ワゴンと同じです。マイクロバスだって「琴平自動車学校」とか「岡山チキンブロイラー」なんて文字を消しもしないで走って
いるのですから、笑ってしまいます。運行は、たいがい夫婦で運転手と車掌(金庫番?)をしているようで、安価で便利な島の
交通手段です。乗りたい時は道に立っていればいいし、降りたい時は「止まってんか」と叫べばいいので、大変気楽なものです。
ただ、普通は現地の人しか乗らないので「止まってんか」も現地語です。最初のうちはさっぱり分からず、英語で”Stop here!”
なんて叫んでいましたが、本当は”Taioka ikai!”というのだということを、だいぶ経ってからやっと知りました。HI...
<バイリキ>
ホテルの近くのビジターズ・ビューローは留守だったので、適当に地図をもらってその前からバスに乗りました。まず目指すは
テレコム・オフィスなのですが、コピーの子コピーの孫コピーのような質の悪いコピーの地図なのであまりよく分からず、とにかく
タラワの中心らしいバイリキまで行くことにしました。途中、アバラオ、タボリオ、テアオラエレケ、ナニカイ・・・・・・と訳の
分からない地名の載った地図と車窓から見える風景を見比べ、何とか目指すバイリキに降り立つことができました。降りてみると
「街」と言えどもその範囲はせいぜい100m程の間の道の両側だけであることが分かりました。そして、あっちこっちを探す必要も
なく、目の前がテレコムなのでした。その他の建物としては、銀行に生協、放送局、図書館、自動車修理工場、スーパーなどがあり、
南の島の街としてはまあまあ何でも揃う中心地としての機能が感じられました。銀行では、IG,TXが両替。
また、独立記念10周年記念コインがあったので、$10のを1個入手しました。
<テレコム>
テレコムには、作業所とオフィスがあり、作業所の方には大きなパラボラが真上を向いていました。(これが赤道直下の国である
ことを実感させてくれます。)ここで聞くと、免許担当官であるTerukaio氏(T30MT)はオフィスにいる、ということ
なので、私達はオフィスに向かいます。フロントで用件を告げ、呼んでもらうと、少しして直々に出てきてくれ、執務室に通して
くれました。お土産を渡し、QSLを交換。彼は発給コールサインのリストを出し、「お前は誰だ?」と尋ねながら、リストに
チェックをしていました。雑談では、JARLの原会長とコンベンションで一緒になったことがあるとか、JARL NEWSの
英語版を持っているとか色々話してくれました。彼も、アマチュア無想は好きだと言うことで、KENWOODのキカイで21MHz
なんかをよく聞いているそうです。あまり手間を取らせても悪いので、この辺で引き上げることとます。お土産のTシャツを忘れたので
「また来る」と言って・・・・。
<ベシオ>
テレコムを出た私達は、YAQのメンバーに送る絵ハガキを探しました。後で、苦労の末やっと手に入れることができたのですが、
ここではダメ。郵便局でも生協でも、小さなスーパーでも図書館でも、全く取り扱っていないのです。諦めて、ピジターズ・ビューローか
ホテルのフロント、それにカトリックのミッションで、入手可能だという情報だけを得て、次の行動に移ります。
再び、バスに乗り、環礁の最西端の街「ベシオ」に行きました。べシオは旧日本海軍と米軍が激しく戦った場所で今でもその残骸が
あると聞いていたからです。ベシオは漁業の盛んな地でもあるらしく、漁業無線用であろうロンビックやGP、ヤギなどがあちこちに
上がっています。マリン・トレーニングスクールもこの島にあります。さて、バスを降りて歩いていると、ありましたあリました。
旧日本海軍の砲台です。しっかり岸壁に据え付けられたまのものや海中に崩落しているもの、軍用無線機の匡体らしき残骸もありま
した。銃痕の残る指令部後のコンクリート等を見ると、「ここで戦闘が繰り広げられていたんだ」ということが実感されます。
この道路以外は、少しイナカではありますが別に他の街と変わったところばなく、普通の南国の街です。島を1周ぐるっと歩いて
帰途に着くことにしました。歩いていると子供達が寄って来て、ガイジンである私達に話しかけます。写真もたくさん撮らせてもらう
ことができました。
往路はバスで渡った「ダイニッポン・コーズウェイ」。帰りは暑さに参ったIGはバスですが、あとの2人は歩いて渡ることにしました。
一直線なので短く見えるこの橋も、3km以上はあるようで、大変疲れました。風までムッとしています。しかし、橋の中間辺りの、深く
海底を掘り下げて船が通行できるようになった海路などは、初めて見る美しさでした。そこだけ深さが違うので海の色も違い、文字通り
「海の道」といった感じなのです。しんどかったけれども、これも経験。よかったかな、と思います。
余談ですが、YAQのペディションには必ず帽子を持参しましょう。長く歩くと冗談ではなく、本当に死んでしまいます。この日、私も
帽子を忘れてホテルを出たのですが、すぐに気付いて取りに帰ったのです。これは大正解で、面倒臭がって取りに帰らなかった
ならば、多分ダイニッポン・コーズウェイの真ん中で、大往生を遂げていることと思います。
<絵ハガキpart1>
ホテルへ帰ってシャワーとビールで一服した私とTXは、絵ハガキのため、もう一度ビジターズ・ビューローへ行きました。
すると、タイプを打っていたオバチャンが、時間外だといいながらも、絵ハガキを何とか売ってくれました。1枚50セント。
ここには18枚しかなかったので、全部買いました。9ドルなのですが、支払いは郵便局でするらしく、おつりの1ドルを
わざわざ郵便局まで取りに行くという優雅なオバチャンなのでした。あとは後日、他で調達するしかありません。
【無線の虫、復活!】
ホテルへ帰ってしばらく、私は寝ていて他の2人がオペレートという変則的な(?)光景が見られます。でも、後から思えば
その夜のためにひたすらエネルギーを充填していたのかも知れません。私は、夕方の5時半頃から無線機に向かいます。
この日は21MHzが最高のコンディションでした。SSBでもCWでもRTTYでも、JAやヨーロッパのドパイルです。
このペディションで初めてSSBでの「300〜310」という広い幅のスプ・リットやCWでの「UP5」を楽しみました。
私は明け方までヨーロッパ・から解放してもらえず、おかげでほぼ9時間の連続運用で800局とQSOができました。
QSLを扱ってくれている0INさんも閉口する「同じ時間に4局も5局も局が並んでる」とか「ログ1ページがわすか5分」
とかいうのも、「この日のことかな?!」と思います。もう、ログは85ページを教えます。3D2と合わせると、既に局数は
2000を超えました。
IG、TXも、眠っていた訳ではありません。IGのログを見ると、29MHzのFMが登娼。70局以上にサービスしています。
その他、21MHzや14MHz、18MHz等のSSBでも局数を伸ばし、彼の局数も500に迫っています。TXは
WARCバンドと7MHzを中心に200局余りと交信。ログは1冊終わろうとしています。ただ、彼はこの日、歩き疲れたのか、
それとも私がリグを独占していたためか、日付が変わる前にJA3KWZとの交信を最後にQRTしています。
それにしても、3人のログを見てみると、IGが24ページ、ILが85ページ、TXが47ページ、で合計すると156ページ
にもなります。キリバスに着いてまだ2日と半分くらいなのに、もう3000局を超えているというのはすごいと思いませんか。
これだからペディはやめられないのです。へへへ。皆さんも行きたくなるでしょ?「今年の夏も、また太平洋ペディを」との話が
進行中です。興味のある方は、JI3DLIに連結を!
<<8月11日(火)>>
【絵ハガキ騒動】
個人用やYAQメンバー用も含め、絵ハガキが必要だった私達。私は昨夜のパイルがこたえ、昼まで寝ていたのですが、起きても
無線は100局くらい21MHzでさばいただけで、TXと一緒に絵ハガキ探しの旅に出ます。外は今にも雨が降り出しそう。
しかし、YAQの留守番組の皆さんは、私達とのQSOはもちろん、絵ハガキも心待ちにされているんですよね・・・・・。
再びバスでバイリキまで出て、先ずはテレコムで渡し忘れていたTシャツを渡しました。この前、絵ハガキキは教会にあると
教えられたのですが、教会が見つかりません。そこで、あちこちで質問したのですが、これが正解でした。「放送局にあるよ」と。
すぐそばのRADIO KIRIBATIへ直行すると、そこでは気前よく絵ハガキを売ってくれました。しかも1枚たったの
¢10というので、いろんな種類を計107枚購入しました。あとは教会・・・・・・ということで。ちなみにこの放送局、
太平洋エリアでは番組制作賞を取ったことがあるとか何とかで、その賞状なんかが入口に飾ってありました。せっかく、ゼネカバの
受信機(!?)を2台も持参していたのだから、土産話に聞いておきゃよかった・・・・・・なんて今頃気付いても遅いですよね。
さあ、教会へバスで引き返します。往路では見つからなかったのですが、帰路、何とか発見。待望の絵ハガキともご対面でき
ました。が、しかし!現地のヒトは売ってくれそうな口ぶりだったのですが、そこのボスのような白人の偉そうなのが、「これは
お土産用だから、売れん!!」と強硬に言うのです。クソッタレ!私達は、売ってもらえるものと思っていたもので一瞬耳を
疑いました。(いやホント。英語のヒアリングが×なダケではないよ。)
しかし、どこにでも親切な人はいるもので、Patricという事務員さんが「ホテルにほど近いBikenibeuのMSChouse
という所で入手できる」と言ってくれ、そこで5時に待ち合わせをすることになりました。
私たちは一度ホテルに戻りました。雨は強くなりますが、約束があるので、しかたなしにMSC houseなる所へ向かいます。
道を間違えて集落へ入り込んだり、そこの店のおじいさんに道を尋ねたりしながら、やっと目的の場所を見つけました。
MSC houseというのは教会の中の土産物店のような所でした。 Patricは既に来ていて、ここで絵ハガキを
1冊$5で売ってくれました。
私は腹ペコというかエネルギー切れというか、本当に今にも倒れそうでした。TXは、今でもそれを言うと笑い者にしますが、
一昨年入院してからそんなことがタマにあるのです。で、「何か食わせてくれ〜! 死ぬ〜!」と私は叫び、沿道の店でジュースと
ビスケットを買って道端で食べ、やっと生き返ったのでした。さすがに歩いてホテルへ戻る気力はなく、私達はバスでホテルへ
戻りました。この国では、絵ハガキを探すのも命がけなのです!キリバスからの絵ハガキを受け取った皆さん、大事にして下さいね。
なお,この日の無線ですが、IGは私達が絵ハガキ騒動をしている間にWARCや21MHz、29MHzで稼いだのと、
夜の14.195MHzのパイルでログが38枚目に。私は夜、10.101MHzに居座ってJA/Wを340局ほど稼いだので、
ログが107枚目に。TXはこの日は21MHzで稼ぎ、80枚目彼のログは、余りのパイルのせいか混乱が見られ、時間が狂って
いたり、文字が乱れたり。OINさん、ご苦労さんです。3日半を過ぎてT30ペディの局数は、約4500局に。おもしろいのは
IGさんのログ運用中に9D2RRとかS21ZAというメモが見られます。彼はペディをやりながら他人のペディを追っかけて
たのでしょうか?
<<8月12日(水>>
【ペディらしい1日】
こんなサブタイトルをつけなくても、局数から判断できるように、毎日ペディらしいのですがね。この日はIGとTXが買い出しで
私が無線。ウーン、ペディらしいでしょ?私は朝から21MHで100局くらい。昼からは18MHz、24MHz、28MHz
といったバンドでRTTYやFMも交えてサービス。夜はひたすら7.004MHzでさばき、また3.5MHzで1局だけ、UAが
できました。IGの特記事項は,念願叶って夜の21.295MHzでEU/JAのパイルに出会えたこと。彼にしては珍しく、
長時間リグの前に座り、350局位連続してQSOしていたのでした。TXは昼間はハイバンドを少し。夜になって10.101MHzと
7.015MHzでのW/JAを楽しんでいたようです。累計局数はIGが850、ILが2700、TXが1300で、合計は
5000を優に超えました。
<<8月13日(木)>>
【キリバス人と知り合う】
朝食を食べにホテルのレストランへ行ったら、従業員の2人の現地人に声をかけられました。1人はMarie、もう1人は
Sumoaと言い、2人とも男性です。
Marieは「せっかくキリバスへ来て、キリバスの生活を体験しないと何をしに来たのか分からない」と言います。
全くその通りです。レストランの片隅にあるキャッシャのテーブルの上でキリバス語を習ったり日本語を教えたりした後、Marieの
家に連れて行ってもらうことになりました。
Sumoaは、Marieの友人。私達が無線をやりに来たというので紹介してくれたのです。彼はCBをやっています。家には
3エレがあるとか。私達は、彼ら私達のをシャックに招きました。YAESUの無線機を見るや、「ええ機械やなあ」を繰り返して
います。sumoaが言うCBのチャンネルを探して757のダイヤルをスイープします。彼の使っているチャンネルはすぐに見つかり
ました。27.055MHzです。私達のリグは1.8MHzにオンエアするためにゼネカバ送信に改造してあったので、内緒で(!)
マイクを貸しました。すると、Sumoaは、「81 81」と呼びかけ、仲間を呼び出しました。相手も、YAESUのリグには
敬服していたようです。何でもキリバスにはCBが多く、日本のCBともよく話をするそうな・・・・・。アマチュアは試験があるので
なかなか取れないようです。
【キリバスライフ体験】
私達は、エアコンのついたSamoaの車で、ますはSumoaの家へと向かいます。彼の家には、3ele、ダイポール、GPが
あり、ローカルスタイルの建て物がシャックになっていました。サモアなんかでよく見かけたあれです。家族は別棟の木の家に住んで
いるそうで、うるさいから追い出されたとか。YAQでもどこかにこんなヒト、いましたっけ?
アンテナはバカ高く、よく飛びそうです。今は壊れているそうですが。「これなら全世界と交信するのに十分だ」と言うと驚いて
いましたからきっといつもはこの3eleで島の仲間とだけ喋っているのでしょう。奥さんは小学校の先生で、石川県の小学校に交歓で
行っていたそうです。いろいろと写真を見せてくれました家の窓から中を見ろと、習字が貼ってあったりして、親日家の雰囲気が
うかがえました。ダンナが国営ホテルの従業員で、ヨメサンが先生とは、キリバスの中でも多分上層階級に属するんだろうと思います。
さて、次はMarieの家。先日MSC houseを探しに迷って入り込んだ辺りです。ネコやニワトリや犬がたくさんいます。
この人も日本びいきで、何でも日本人の写真家を長期に亘ってスティさせていたとかで、自分の子供にもその写真家の名前をとって
「タカシ」なんてつけているくらいです。涼しい木陰の吹きさらしの高床式のりピング(?)で、奥さんが昼食の準備をしてくれて
いるのを待っている間に、私達はお土産として、のれんと鈴をあげました。また、「カメラはあるがフィルムがない」なんて話が
出たので、お安いご用と、フィルムもプレゼントできました。
Marieの家は水道完備。・・・・といっても雨を溜めるドラム缶からホースが引っ張ってあり、その先に蛇口が取り付けてある
簡単なものです。その水も使い、調理は進みます。よくあるパターンですが、やはり南国では時間はいい加減で「12時には食べよう」
とのことでしたが、実際に食卓に呼ばれたのは12時40分頃でした。この程度の遅れなら、優秀な方と言えるでしょう。HI...
昼食は、ヤシのジュース、ダンゴの様のなもの、パンの木、煮魚、掲げ魚(フライドチキンのような味)にキリバス風刺身、豆を
ココナッツミルクでこねたもの、ライス・・・・・・と盛りだくさん。私はこれも経験とばかりに2人分くらい食べましたが、IGと
TXは少し食が進まない様子でした。
食事の後、お礼を述べ、ホテルに帰ります。Sumoaが来てくれるはすでしたが遅いので、歩いて帰ることに道々女の子の写真
ばっかり撮っていたのは誰かな? 私はCOOPでTシャツを買って帰りました。・・・・明日はキリバスを発つという日。この日は
キリバスの生活を体験でき、現地食もごちそうになる、というかけがえのない日になったのでした。
((((付録))))
Marieに習ったキリバス語辞典
Please, here! = Taioka, ikai!
Helio to you all. = Kam na mauri.
Hello. = Mauri.
How are you all? = Kam uara,
How are you? = Ko uara.
We are fing. = Ti marurung.
l am fine. = l am fine.I marurung.
And you? = Ao Ngkoe.
Good bye. = Tiabo.
Thank you. = Ko raba.
I love you. = I tansiriko.
Cheers!(乾杯!) = Tekeroei!
【最後の晩袋】
Marieの家からホテルに帰ってきた私達は、ます撤収に向けてのスケジュールを打ち合わせました。もう時間が少ないので、
1〜2時間毎の時間割りを決めて無線をしようというのです。協議の結果、TXが1番、ILが2番、IGが最後ということになりました。
TXが無線をしている間に、私は事務処理です。フィジーへ、飛行機のリコンファームの電話を入れようとしましたが、これば
フィジーの電話番号の関係で苦労しました。それから、フロントで清算とと空港までの「足」の話。支払いは夜、済ますことと、翌朝の
「足」の話は成立しました。ホテルのお姉さんとも顔なじみになってしまったので、「夕方の7時45分に送ったろか」なんて冗談も
言われる始末。
陽が落ちないうちに3エレとダイポール1本は撤去を終え、最後の晩餐に臨みます。これまでは、ホテルのレストランで夕食など
とったことがなかったのですが、この目は豪華にフルコースと奮発しました。ワインに各種カクテル、スープに前菜、メインディッシュに
コーヒーorティーと、大変おいしいFBなディナーでしたが、それでも日本円にして1000円くらいだったでしょうか。それなら
毎日食べればよかった・・・なんて思ったものです。
キリバスから家への最後の国際電話をした後、フロントへ支払いに行きました。1週間の滞在で、1人約350ドル。3万円ちょっと、
という感じです。やはリイナカは安い!
部屋では、最後のオペレートが続きずきます。ダイポールになったので、少々非力ではありますが、湧いてくるJA相手には問題
ありません。買いすぎたピールを無理して飲みながらの運用で、IGは1000局、ILは3000局、TXは2000局をそれぞれ
超えたようです。あ、最後の日の私のログに、京都クラブのJE3OGK、JK3AOGご夫妻のコ−ルが並んでいますよ!
<<8月14日(金)>>
【キリバスから再びフィジーへ】
キリバスを発つ日は、6時起床でした。カップ・ラーメンを食べると、全ての荷物をまとめました。約束通り7時にフロントへ。
ところがホテルのバスは、空港へ他の人を送って行ったきり、帰って来ません。7時45分にチェックインなのに、実に7時40分まで
放っておかれたのでした。途中、sumoaが出勤して来て「困ったらいつでも言ってんか」と言ってくれました。また、Marieも
フロントへ出てきたので、昨日のお礼とお別れを言うことができました。
もうダメだから、Sumoaにお願いしようかと考えていた頃に、ホテルのバスが悠長に戻って来ました。別に時間のことなど、
そんなに気にもしていないようです。バスはホテルを後にし、1週間前に来た道をBonriki国際空港へと走ります。空港に着くと、
もうチェックインの時間が来ているのでカウンターへ急ぐと、国内便に乗るらしい人はゾロゾロ入って行きますが、私達の
チェックインは全然。イミグレーションで聞くと、8時から始める、とのこと。慌てて損した・・・・・・という感じです。
さて、チェックインです。計量は、日本製の八カリにドカッと荷物を載せます。少々超過気味でしたが、OK。
飛行戦は、例のAir Marshall。少し広い席を占領することができました(ここには、1週間前にはエライさんが座っていた!)。
T2で給油後、夕方にNadi着です。特に入国に問題はありません。ただ、入国管理官のブースを過ぎた辺りでオジサンが縁の
カードをくれました。オジサンは慌てている様子で、「Tuvaluでコレラが発生したとWHOが言ってる。わしゃ知らんがね」
と言うのです。この時問題なかろう、といい加減に読んでいたこの紙、ホテルでよくよく読んでみると大変なことが書いてあったの
でした。
文面は、表に「この紙を持った者は、重大な病気の汚染区域を通過した。もしも後日何らかの症状が現れた規合には、すぐにこの
紙を医者に提示し、指示を受けよ」といった本人向けの文、裏には「この紙を持って来た患者がいたら、すぐWHOに届け出よ」と
いった医者向けの文が!
偶然(だろうと思いますよ)フィジーでは3人とも腹痛と下痢に見舞われまして、正直コレラの感染を心配しました。3人で、
「腹痛い!言うたらJAに帰れへんかも知れへんから、黙ってよな」とか、「JA帰ったら、帰り道いろんなとこへ立ち寄って菌を
バラまいたろ」なんていう怖い会話をしていたことは内緒です。そう言えば帰途山科で力ピスに寄ったのですが、皆さん大丈夫でした?
へへへへへ・・・・・・
【3D2、本番】
空港を出ると、ますはレンタカー屋へ直行。LGC(のお父さん?)のような従業員が応対してくれましたが、70ドルで契約で
持って来た車がランサーのセダン。約束ではランサーワゴンだったはすなのです。「ちゃんと Bookingしてるやんか!」と怒ると
代わりに110ドルの4WDワゴンを72ドルで貸す」と言ってくれました。ゴネ得をさせてもらった気分です。
フィジ−では、専ら運転手は私です。Nadiの隣りのLautokaまで、およそ30分のドライブです。フィジーの道にはロード
パンプといって、道路に減速させるための「凸」があるのです。昨年、DEVさんは、この凸に減速せずに突っ込んで、車ごと飛び
上がったとか・・・・?
さて、Cathay Hotelへ到着です。「無やるから26〜28号室にしてんか」と言うと、すんなり26号室のカギをくれ
ました。それからすぐにアンテナ張りです。時間的にも精神的にも余裕があり、1週間前よりもずっと高いところに給電部のある
ダイポールを張ることができました。すぐに無線をやりたいところですが、暗くならないうちに町にでて、買い物と夕食を済ませます。
すでに店が閉まりかけていて、私達が入ったスーパーも、私達が出た直後に電気が消え、閉まってしまいました。夕食は、前年の
ペディ隊御用達の中華料理店へ。TXの馴染みの店らしいです。おもしろいオバチャンと、オカマのにいちゃんがいます。そこで、
スープと一品を食べ、瓶ビールを買ってホテルへ戻りました。
ホテルでは、例によってIGがタイムテーブル作り。ここではリグが1台しか使えないので、同時に2局のオペレートは無理なのです。
この日はIG−TX−IL(これまでのQSO数の少ない順)の順に2巡。事前のTVlチェックも異常なく、夜の9時、IGから
QRV開始となりました。IGは、最初の1時間で30局ほどやりましたが、2巡目は目付が変わったので、たった2局でお休みだ
ったようです。TXは、10時からの1巡目では10局どまりでしたが,2巡目に7のCWで40局ほど稼ぎました。
私は11時からの1巡目から7のCWで75局、深夜2時からの2巡目も懲りずに7のCWで70局。延べ2時間を7のCWばかりで
145局のQSOとなりました。
<<8月15日(土)>>
【コレラ?苦しみのフィジー】
この日は朝から観光に出かけました。しかし、IGは腹痛で大変。私も本当にヒドい下痢と腹箱で、死にかけていました。
空港でもらった緑のカードのこともあり、私達はもしかしてコレラでは・・・・・・と、マジに心配しました。実はそれまで
あまりコレラについての基礎知識もなく、慌てて和英辞典や英和辞典で「コレラ」を引いて症状を確認するような有り様でした。
とは言え今回私は運転手ですから、その責務を果たさなければなりません。Queens Roadを西へ西へ。
Yako村を越え、ガソリンも入れ、去年もペディション隊が来たというリゾート地のホテルで軽食をとりました。
Cathay Hotelからは100Km以上も走ったというのに、まだ首都Suvaまでの道のりは半分位。Suvaまで
行ったら死んでしまう、と引き返すことにしました。「フィジーなんて小さな島国さ」と思っていましたが、こうして見ると
結構大きなものです。サモアよりずっと大きい!!!!
帰りは少しショッピングをしました。貝殻屋が並んでいる地区で、私が見つけた店には人なつこいオバサンが店番をして
いました。入っていくと、雑誌を見せ、「ホレ、ここに紹介されてる」と自慢し、安いのか高いのかたくさん貝殻を買わされ、
おマケに娘の学資カンパ(?)までさせられました。
HI・・・Nadiでも日本語の店でネックレス、敷き物、Tシャツなど、おみやげを買い、Lautokaへ帰ります。
Lautokaでも少し商店街を回ってからホテルに帰ったのですが、もう私は熱と腹痛、頭痛で完全にダウン。
TXは無線で「lLはダウンしたからRTTYはお休み」とアナウンスしています。無念ですが、IGから胃腸薬や
風邪薬などをもらって眠りました。IGもダウンしているため、TXは一人で夕方無線を楽しみ、21のSSBなどで
1時間100局ペースで稼いでいたようです。「お休み」のはずの私でしたが数時間寝て起きると少し症状は軽くなって
いました。RTTYだけはリクエストが多いので少しやってからまた寝ることにし、「お休み」返上。この時のRTTYでは、
SARTGコンテストのナンバー交換を少しするとともに、JF3LGC,JA3CMD,JG3CZJ,J13NTS,
JK3DEV,JA3DYといった京都各局とQSOできました。お見舞いの言葉をかけて下さった各局、ありがとう
ございました。本当にコレラ疑惑と島内観光で疲れてしまったこの日ばかりは,3人とも早く寝たのでした。
<<8月16日(日)>>
【JH2WRE/MMの”Whispering Jack”へ】
IGは、朝早くから無線をしています。私はまだだるさが残り、起きにくい朝です。また、今度はTXが腹痛でトイレに
何度も通っています。・・・・・という訳でペディション最終日は3人とも昼までゴロゴロ。(「テキパキ」ではない)
無線をやっていました。KCJコンテストにも少しエントリーしました。昼前、T30でもQSOしたJH2WRE/MMが
声をかけてくれました。同じ街のマリーナにいるので大変強力な電波です。誘ってくれたので、昼からは彼のヨットに遊びに
行くことになりました。
かなり迷いながら私達はNeisauMarinaへ。ヨットのミオさんは、関西弁混じりで色々話してくれます。日本から
離れて孤独な航海をしていると無線はありがたく、また訪問してくれる日本人も大歓迎とのこと。彼が言うにはDXペディション
なんて、ヨットがあればどこでも行けるし、現実にKP5や3D2Xなどなどどこにでも仲間が常にいるそうです。ただ、目的と
興味が異なるので、彼らはペディ的運用などしないけれど。その他、大滝さん(5W1FD)の話やJARLの原会長の話、
GPSの話に人生哲学など、本当にいろんな話を聞かせてもらいました。
私達は、彼の話を聞きながら、みんなでお金をためてヨットを買い込んでDXペディの旅に出、ログはパケットでQSL MGRの
橋本さんに送れば非常にFB・・・・・と、叶わぬ夢を見るのでした。
【ペディション最後の日】
ミオさん夫婦にさよならを言い、いつもの商店街を通ってホテルへ帰りました。今日は日曜日なのでとっても静か。平日とは
全然雰囲気が違います。ホテルへ帰り、数時間の運用後、T30の時と同様時間割の作成を行いました。時間割ができると
「最後の晩餐」にとホテルの食堂へ。スープとラムチヨップ、チキン、ハムステーキ・・・・・・、まともな食事でした。
その後、荷物の片づけをしつつ、交代で無線をします。待ち時間にT30ペディの局数集計もできました。
全ての局数合計は3D2でも1600局余りとなり、私達としては十分に満足ができるものとなりました。安眠の床に着く
3人であります。HI、HI・・・
<<8月17日(月)>>
【帰国? いや、なんの・・・・・!】
ペディションは終わりました。帰国の日です。機材の撤収もホテルの精算も済ませ、余裕のヨッチャンでレンタカーにて
空港に向かいます。勝手を知った今回4度目のNadi国際空港、チェックインも搭乗も全てスムキズ。ビジネスクラスなので、
丁重な待退を受け、現地調達の安いチケットを手に私達はNZの広々とした機内へと乗り込んだのでした。早くもワインサービスが
あり、私達はペディション大成功の祝杯を上げていました。
ところが、いつまで経っても飛行機は離陸しません。それどころか、乗務員にあわただしい動きが。今、機体の修理を
しているが、20分以内にメドがたたいと大幅に遅れる、とのアナウンスもありました。
「これはアカンな」というのが私達の感触でした。案の上、修理は間に合わず、パーツをNZ本国から取り寄せるとか何とかで、
10時間以上のDelayということになってしまいました。荷物を夕ーンテーブルからピックアップし、またまた入国手続き
をし・・・・・・という面倒くさい手続き後、私達はタクシーこ押し込まれ、NZ Airのアレンジしたホテルへと送り
込まれることになります。
えらい遠い所まで連れて行かれました。造成中の道なき道を走ったりもしました。どんな所へ連れて行かれるのか、心配しました。
しかし、心配は無用でした。先ほどの道なき道はまさに広大なリゾート・ゾーン造成中の地。行く先と言えば、最新・最高級の
シェラトン・リゾートだったのです。たまたま帰途にビジネスクラスしか取れなかったお陰で、この貧乏ペディ途上に考えも
しなかったリゾートホテルでのご休憩が降って湧いたのでした!
食べ物、ノン・アルコールの飲み物は全て航空会社のツケ。国際電話も5分間分はタダ。カギはカードロックで、トイレにも電話が
ついていて、各部屋にはミニ・バーや裏庭。はしゃぎまくって写真も撮りまくりました。FJG氏だけは翌日の勤務のこともあり、
連絡に大変そうでした。
私は家に電話したところ、せつかくそんなにいいところに泊まったことだし・・・・ということで、シャネルの口紅の注文を
承ることとなってしました。空港の免税店は当てにできないので、ちゃんとココで買いました。
ははは。もうあとは書くことがありません。真夜中にロビーに集合し、空港までタクシーで送迎してもらい、再びNZの飛行機に
乗り込み、ビジネスクラスの快適な旅をして帰国したのでした。
京都では、先ずカピスに立ち寄り、その後各自の家路に着きました。
おまけの原稿 【TNX QSL!】のコーナー
今回のペディションに対し、国内外から多数のQSL/SASEをいただきました。
QSLの裏に、特にコメントのないものが大多数ですが、何か書いてあると、もらった方は大変嬉しいものです。
その中の一部を感謝の意をこめて、ここに紹介させていただきます。
JA30BD/QSOありがとうこざいます。ファーストT30。1カントリーふえてうれしくおもいます。
今後のご活躍をお祈りいたします。
JA2OFI/ありがとうございます。CWではNewです。
JA9KHU/DX Peditionどうもご苦労様でした。
JH7XGC/T30となるとJAよリヨーロツパ局の強いのなんの、やっとQSOできました。
JA2ESR/初めてのT30 ON 7MHz CWありがとうございました。
JH4RHF/TKS NEW ONE ON RTTY!
JGIEIQ/1st T30 ON 10.1MHz!同時刻にP29JAが10.105にQRVしており、
残念ながらこちらの方が人気が高かったようです。次は3.5MHzと18MHzにて御信号を探します。
JH3DPB/久しぶりに元気な声が聞けてFBでした。FB DX!
JA2AA/JAサービス有難うございました。今後ともよろしく。
JA7ASD/JF3PLF St. QSO戴き有難うございました。40Mは貴重です。
JH3QFL/QSOありがとうございました。次回のペディを楽しみにしています。73
JO1LRP/QRPでの初海外QSOでした。ショートでしたがとてもうれしかったです。
WB6ZHZ/TNX FER Shout from T30.
Good sigs into San Francisco.
Hope you enjoyed your trip in the Pacific.
N0MXX/Thanks contact.T30 is a new country for me.
PA0EHF/I need in Pacific:3D2(Conway Reef)KH5K VK9
(Mellish Reef)T31 ZL8.
Something for summer ’93?
WB4FHF/Thanks for new country.
Hope to CU on other WARC Band.
I4MKN/Thanks for nice QSOs.New one on RTTY.
VE3CK/l awoke at 5AM for get up early before work
to find you guys.TNX!
私が入院していたことをCQ誌で知って、身体を気遣ってくれている人もいました。感謝!
また、結構New oneもプレゼントできたようです。バンドニユーも含めて。WやEUでは、まだまだ
太平洋の島は高いんですね。さて、今年のKC6はどんなペディになりますか。
−おわり−
(この記事は1993年10月から1994年6月京都クラブ会報No.270-278に掲載されたものです。)
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Last Update May 12,1998